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スタジオフリーの物語

80年代を駈け抜け30年、ようやく過去の私と向き合う

私の軌跡ー2-1

戦うことを決めた日

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いきなりワープします。

 

今日は、真面目な文体です。

 

私にとって、真面目な話ですので。

 

昭和40年代、小学校4年生~6年生の頃。

 

父親はよく長期の海外出張をしていました。

ソ連(当時のソビエト社会主義連邦共和国)であったり、韓国であったり。

 

でも、インドネシアへの出張は長く、2年以上であったと思います。

 

父親はヘリコプターのパイロットでした。

 

まだ国内では、取得した者がいないような、ヘリコプター操縦免許をいくつも持っていたので、開発途上の国や、未開拓の土地の交通整備など、

自動車や飛行機の及ばない土地への輸送はヘリコプターでしか困難でしたので、いつも出張ばかりでした。

 

ヘリコプターは自動操縦でもなく、機種ごとに操縦免許が必要なため、引く手数多、勤めていた会社は、国内最大のアサヒヘリコプターでした。

 

母親は、趣味を兼ねて惣菜店を営んでいたので、いつも忙しく、

 

私は、妹ふたりの面倒と、主婦がする料理以外のほとんどを任されていました。

 

ある日、母親から、

 

「りーこ。今日からお母さんがお父さんの役をやらなきゃならないから、あんたがお母さんをやりなさい。」

 

意味はよくわからなかったのだけれど、その日から「私が妹と家のために戦おう。」と、決めたのでした。

 

3歳下の妹は、いつもメソメソ泣いていて、

通りがかりに犬が自分を見たと言っては泣き、

小学校に入学してからは、「体操着わすれたー。」と、私の教室まで来ては泣き。

 

そんなとき私は、ダッシュで5分ほどの家まで妹の体操着をとりにいき、妹の教室まで

「ほら持ってきな。」と忙しく、

 

5歳下の妹は、身体は大きいのだけど、片目の視力がほとんどなく、距離感がつかめないため、運動音痴で、いつもびりっかす。

ゴムとびも、バレーボールも下手くそで、やっぱり手がかかる妹でした。

 

私は、学校から帰ると、店番。

天ぷらや惣菜、海苔巻き寿司や稲荷寿司。

お客さんが来れば、接客をし、お勘定も包装もしました。

 

でも、担任の先生に恵まれたおかげか、いつも私を褒めてくれて、成績も運動も常に1番をとれていたり、

 

気が強い性格に加え、母親からの「あんたがお母さん。」のお墨付きをもらっているので、とにかく近所と小学校では、ほぼ最強!

 

の、はずでした。

 

6年生になり、やっぱりオール5の、徒競走では1番の最強であったはずの私。

 

徐々に、クラスには、頭角を現すリーダー格が現れ、ついには4人のリーダーができました。

 

でも、4人はトップのプライドで結束し、阿吽の呼吸で、そのバランスを保っていました。

 

しかし、ある遠足のグループ決めの日。

 

たまちゃんという、おっとりとした女の子だけが、どのグループにも入れず孤立していました。

 

私は、「たまちゃん、私んとこ入りなよ。」と誘ったのが、

 

他の3人の阿吽のバランスを崩したのか、逆鱗にふれたのか、

 

私は3人から、仲間はずれにされました。

 

ショックはありましたが、ここで挫けちゃお母さん役がすたるし、

担任の先生は私を褒めちぎるし、

 

その日から、私は多勢に無勢の戦いをすることになりました。

 

でも、ひとりじゃない。

 

私を慕ってくれるグループも守らなきゃならないし、妹たちも守らなきゃならないし。

 

孤独感をこらえ、少数派の戦いをしていくことの決めたのでした。

 

そんな、負けん気や、前向き思考で、やや暢気な性格が、

 

後の私の、

 

「大幸福と大不幸の振幅」を、さらに大きくしていくのでした。

 

続く